説 教

  2022年1月30日

降誕節第六主日

  • 「命を得させてください」

    秋山徹 牧師
    ヨハネによる福音書14章1~7節
    ※音声ファイルはありません
     新しい年2022年を迎えました。新栄教会の新しい年、コロナ禍によっていまだなお暗い陰が地を覆っていますが、しかし、この教会はこの年新しい牧師を迎えて新しい時代が開かれます。どうか教会が、またそこに集う一人一人が主の祝福を受け、希望に満ちた歩みの年となりますように。  これまで何度か新栄教会の礼拝で奉仕させていただき、新約聖書の言葉を共に聴き、主イエス・キリストによって開示された福音の調べに心を傾けてきました。今日は旧約聖書の詩編の言葉から命の言葉に触れ、魂の慰めと糧を得たいと思います。 詩篇119編を選びましたが、この詩編は何と176節まであり、聖書の中でももっとも長い章として有名な詩編です。これに対してもっとも短い節はどこかなどとよく聖書クイズでとりあげられることがあります。あまり長いし同じ内容が繰り返し語られているので、退屈だと思われそうな詩編です。しかし、少し注意深くこの詩編を読んでいくと、様々な驚きに出会います。今日はその一端を解きほぐして聖書の面白さ,深みを味わいたいと思います。  まずこの詩編の驚きの一つは、この長い詩の形式です。この詩の表題のところに、「アルファベットによる詩」と記されており、その後に(アレフ)、(ベト)、(ギメル)・・・と8節おきに印がついています。これはヘブライ語原典聖書を開かなければ実際の姿は見えませんが、アレフと印づけられている8節は各節の初めの単語がアレフ(英語では“a”に相当します)、次の8節の各節の冒頭の単語はベト、(英語では“b”に相当します)。こういった具合に、ヘブライ語のアルファベットのアレフからタウまで22文字が8節ごとに整然と並んでいるのです。したがって22×8で176になるわけです。各節の初めはすべてアレフならアレフで始まりますが、どれも同じ意味の単語ではなく、違う意味の同じ文字で始まる言葉が選ばれているのです。実際にブライ語の原典を見ると圧巻で、よくぞこんな詩が作られたものだと感心しますが、おそらく俳句の連歌のように共同作業のような形で何人かで頭をひねり合い、競い合ってこの詩ができたのではないかと想像します。  さらに、詩の内容を見てみると、各節ごとに必ず「律法」と言う言葉かその同義語が使われているのです。例えばアレフのところで見てみると、「主の律法」、「主の定め」、「主の道」、「あなたの命令」、「あなたの掟」、「あなたの戒め」「あなたの裁き」、と言う言葉が使われていますが、次のベトの9節から16節の各節にも「あなたの御言葉」と「あなたの仰せ」が加わっていますが、これ以後すべての節で律法と言う言葉かその同義語もどれかが必ず出てきます。つまり、この詩編の内容は、一貫して律法がいかに大切で素晴らしいか、律法に対する賛美と感謝、正しい律法を教えてください、そして、律法を学び従うことがいかに喜ばしいことか、自分は律法に従いますと言った感謝や賛美、祈りや決意が歌われている詩編であることが分かります。この詩編の最初に 「いかに幸いなことでしょう。全き道を踏み、主の律法に歩む人は。 いかに幸いなことでしょう。主の定めを守り、 心を尽くしてそれを尋ね求める人は」 と歌われていますが、この内容がこの詩全体を貫いているのです。ですから、この長い詩編は律法を学ぶラビの学校のようなところでつくられた詩のようだと想像されるわけです。日本でも俳句や短歌は5,7,5とか、5,7,5,7,7と言った文字数を合わせたり季語を入れたりと言った語数や形式の決まりによって詩が構成されますが、詩篇119編はこのように独特の詩の形式に沿って作られているのです。その形からこれをつくった人(人々?)の遊び心(?)あるいは推敲過程をたどりながらこの長い詩を楽しむことができる、これもこの長い詩を読む読み方だと思います。  次に、少しこの詩の内容に入ってみると、先ほど触れたように、この詩の全節にわたって、必ず律法、定め、道、命令、掟、戒め、裁き、御言葉、仰せと言う言葉が使われており、イスラエルの民がどれほど主の律法を大切にしているか、その熱情を感じ取ることができます。しかし、顧みると、新約聖書から学び主イエス・キリストの福音に触れているわたしたちは、「律法」についてはこんなに手放しで賛美することが出来ない思いが心に刷り込まれているのではないでしょうか。主イエス・キリストがガリラヤ湖のほとりで人々に福音を宣べ伝え、罪人や病人を癒し、招かれた、そのような神の国を宣べ伝える福音の宣教と愛の働きにたいして、律法に熱心に忠実に従うファリサイ派の人々や律法学者たちの妬みと反抗がどれほど激しかったか。律法に捉われることによって目の前の困窮している人、隣人に対する愛が変質し、自らの誇りと自己愛に捉われた姿になって行く数多くの様を知らされています。ついにこの律法の徒が主を十字架へと追いやったのです。ローマの信徒への手紙やガラテヤの信徒への手紙では、わたしたちが救われるのは。律法の行いによるのではなくイエス・キリストの真実を信じる信仰によって救われることが強調されています。律法が入ってくることによって罪が増し加わることになった、人間の罪により律法の呪いにとらわれているとさえパウロは語ります。新約聖書の民であるわたしたちキリスト者は、このように「律法」と言う言葉を聴く時にバイアスがかかっており、素直に律法賛歌にはついていけないという感じになり、したがってこの詩編119編もわれわれには関係ないと、心を閉ざして素直に聴けない傾向、ベールに覆われる危険があります。  しかし、「律法」はヘブライ語では「トーラー」で、旧約聖書の最初の5書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のことを指します。そこにモーセの十戒をはじめレビ記や申命記などの「律法」が語られていますが、それと共に創造物語やアブラハム、イサク、ヤコブらのイスラエルの族長物語、モーセとアロンに導かれて奴隷の民イスラエルがエジプトを脱出し、荒れ野の旅を経験し、乳と蜜の流れる約束の地に至った解放の歴史、恵みの契約のもとにイスラエルを導き、地に定住するに至ったことも含まれています。 詩篇119編は律法賛歌の詩であることは確かですが、この詩によって律法と何であるか、律法の概念の一面的な捉え方を変えることが勧められます。「律法」の同義語として8つの言葉が持っているそれぞれの言葉の意味の広がりをよく思いめぐらしてみなければなりません。それぞれ独特の内容をもつ表現を伴って語られており、律法がただ規則の集成のようなものではないことが明らかにされるのです。それらの言葉は「主の道」とか「あなたの定め」などというように、あなたと親しく呼ぶ主と結び付けられ、それらはことごとく、あなたのみ言葉であり、主の道、あなたの仰せなのです。従って、「いかに幸いなことでしょう。主の律法に歩む人は」と歌われるとき、そこには主がこれまでの歴史において、また、現実の生涯と日常の生活において、主がどのように導いて下さったか、愛と憐みをもって天と地を創造し、土の塵よりご自身にかたどって人を造り命の行きを向き込んで人を生きさせ、イスラエルを奴隷の家から解放され、契約の民として主なる神と向かい合うことによって味わい得た、救いと知恵、平和と安心について、そのありように対する感謝と全幅の信頼が込められています。そのように、わたしたちはこの詩によって律法に対する一面的な理解ではなく、律法が意味する幅と深みとを見るようにと促されるのです。 各節に必ず繰り返し織り込まれている「律法」「戒め」「定め」「御言葉」など9つの言葉は、一貫して「主の御言葉」とか「あなたの道」などの言葉を伴い、それはすべて人間の社会の秩序を保つための道具、人の内から出た決まり事のようなものではなく、恵みと慈しみをもってわたしたちをうぬぼれ、迷い、危機にさらされ、罪に捕らわれる弱いわたしたちを立ち帰らせて、正しい道に導くために主から与えられるものであるとの思いから離れることがありません。105節の「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」とこの詩で最もよく知られた言葉もそのことを指し示しています。律法とその同義語である御言葉や戒めの源泉がどこにあるかを繰り返し確認していることもこの詩編から教えられる重要なポイントです。  今回この長い詩を繰り返し読むことによって一つ発見したことがあります。それはその詩編全体を読むと、一節一節で語られていることは皆もっともなことで律法がいかに素晴らしいものであるか、それによってどれほど益を得ることが出来るか、これを学びたい、これに従いますと言ったことの繰り返しで、読んでいるうちにいささか退屈してくるのも事実です。ときどきハッとさせられるような言葉もありますが、わたし自身として大体は優等生的な律法賛美の繰り返しと言った感じであまり深く心に入ってきません。そこで、この長い詩編で最も多く使われている同じ言葉は何かを調べてみました。そこで意外な言葉が最も多く使われていることに気づかされました。それは予想外のことでした。「命を得させてください」という言葉なのです。先ほど読んでいただいた153~166節の中でも3度この言葉が出てきます。 「わたしに代わって争い、わたしを贖い、仰せによって命を得させてください」(154節)、「主よ、あなたの憐みは豊かです。あなたの裁きによって命を得させてください」(156節)、「御覧ください、わたしはあなたの命令を愛しています。主よ、慈しみ深くわたしに命を得させてください」(159節)。 この言葉が3回も出てくるのは“レシュ”のところだけですが、詩編全体で15回も出てきて、この祈りの言葉がもっとも多いことに気づきました。律法を賛美し、律法を深く知ることを求め、律法に従って生きることの素晴らしさを歌い上げるのは、その深層にある目的、あるいは願いや祈りの核心は、命を得させていただくことにあると知らされます。またこの詩編で示されている律法の同義語、生きて、定め、道、御言葉、仰せ、命令、などはすべて命を得ることにつながるという認識に貫かれているのです。  「命を得させてください」と祈り願う命とは、どのような命なのでしょうか。命は名詞形ですが、その動詞形は“いきる、生かされる”、形容詞は“生き生き”と、命をめぐる言葉は多様に広がり、社会や歴史、文化を超えて生きとし生けるものすべての最も根源的な願い、祈りに通じます。「命を得る」こと、ここではただ呼吸をし身体の機能を支えている根源の力、自然のリズムの中にある命をはるかに超えたものとして捕えられています。そして何よりも、この命は自明のもの、偶然にあるものではなく、確かに神からのものであり、神の言葉と裁きと道によって照らされる生命の全体的・総体的なものであるので、神の戒め、律法の賛歌では、これによって「命を得させてください」と言う祈りが究極の祈りとなっているのです。預言者アモスは「主を求めよ、そして生きよ」と神の言葉を伝えましたが、神を求め、神の戒めと教えを求めることにおいて、命の源のありかを確認し、それを求める、そこにおいて本当の意味で生きることが出来る者となることが教えられるのです。そのように主なる神に対する信頼と期待があり、そのように祈らざるを得ない人間の窮状と渇望がそこに表わされていることを認めることができます。詩篇119編を読むとき、主の御言葉、主の道、主の律法を賛美し求めることは、命を得させてくださいという究極の祈りにその本源をみるということ、ここに旧約聖書の信仰の本質を見ることが出来ると思います。   新約聖書で、命とは何か、命を得させてくださいとの願いと祈りはどのように展開しているかを考えると、驚くべき展開があることに気づかされます。主イエス・キリストの存在とその言葉と御業を通して命を得る道が劇的な転回を見ることになることは、主イエス・キリストを信じるわたしたちは、御言葉を通して繰り返し教えられ学び、その救いの福音によって朽ちることのない命を与えられ養われています。主イエスは、わたしたちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と呼び掛けられると共に、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者はそれを得る」と語られます(マタイ16:24-26)。命を得る道はわたしたちが思い描く道とは全く違ったところに開かれていることが示されるのです。主イエスは、「神その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)と語られて神によって与えられる命は、独り子を信じることによってこの世の命を得ることを超えて、永遠に滅びることのない命を与えるとの約束を伝えています。そして、主イエスは「わたしは道であり、審理であり、命である」(ヨハネ14:6)と語られます。実に、命の本体はキリストご自身であり、そこに真理があり、命に至る道があることを教えられるのです。主イエスの十字架の死と復活の御業を通してその御業が真の命から遠く離れて絶えずその道に背き、真理の道から離れて行こうとする罪人であるわたしたちのために、その道を開かれたことを知るのです。  わたしたちは詩編119編の主の律法をしたい求める祈りの御言葉から、「命を得させてください」と言う祈りがその本質にあること、この祈りはわたしたちすべての心にある祈りを包む祈り、願いであると言えると思いますが、そのように祈ることによって何を祈っているのか、何を求めているかを思いめぐらし、そこから聖書が指し示す光へと導かれたいと願います。