説 教

  2022年2月27日

  • 「愛の実践を伴う信仰か、愛によって働く信仰か」

    秋山徹 牧師
    エレミヤ書31章31~34節 / ガラテヤの信徒への手紙5章1~6節
    ※音声ファイルはありません
    ガラテヤの信徒の手紙5章6節で現在わたしたちが使っている新共同訳では「愛の実践を伴う信仰こそ大切」となっていますが最も新しい聖書協会共同訳では、「愛によって働く信仰こそが大切」となっているのです。この翻訳の違いが意味することは何か、何が違うのか、どちらを取るのがいいのか、これは主イエス・キリストを信じるわたしたちにとって重要な問題です。何が違うかといえば、キリスト・イエスにあって、「愛によって働く信仰」と「愛を伴う信仰」とでは「愛」の意味する内容が全く反対になっています。つまり、「愛によって働く信仰」の場合、その愛はキリストによって示される神の愛を意味すると理解されますし、「愛の実践を伴う信仰」では、信仰は人間の実践・行為を通して示される愛を伴わなければならないことになるのではないでしょうか。私たちの信仰において表される愛は、神からのものか人間の側からのものか、これが問題です。  ガラテヤの信徒への手紙において語られている中心的なメッセージをたどってみると、5章6節前半の「キリスト・イエスにあっては割礼を受けた者か無割礼のものかは問題ではない」ということは、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました」(2:16)、「そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分のものも、男も女もありません」(3:28)ということの裏書で、ユダヤ人であるかギリシャ人やその他の異邦人であるかは神に義と認められる点においては何の問題ではないということで、そのところから、「愛によって働く信仰こそ大切」と語る時に、突然、“信仰”に加えて”愛”が出てきます。この愛と信仰とはどのような関係にあるか、当然、これまで「信仰のみ」と語ってきたのですから、その信仰は神の愛によって働くものとして語られている、と考えるのが順当な理解となります。もし、その信仰に「愛の実践を伴うのでなければ信仰ではない」という条件を付けることになれば、律法の行いを伴わなければならないことになり、話は振出しに戻ってしまうことになるからです。 わたしたちの信仰において愛の実践と信仰とはどのような関係なのかについて思いめぐらし、その関係を正しく位置付けるようにつとめることは無駄なことではないでしょう。さらに5節のところには「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、”霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです」と言う言葉も併せて考えると、ここに“霊”と言う言葉が使われており、キリスト者にとって、「信仰」と、「愛」と、「霊」の関係はどのように位置づけられるのかを整理するという課題も与えられます。それぞれの言葉の内実にあるものが何かを考えると、そのどれもが、人間からのものか神からのものか、どちらからのものとも考えられるという事実、そして、そのどれもが人間からのものではない、神からのものであることに帰着する時に、真に落ち着きどころを得ることになるということに気づかされます。即ち、「信仰」は、わたしたちの側の信心の強さや実行力が問題なのではなく、イエス・キリストを通して示された神の側の真実と約束に全幅の信頼を寄せること以外のことではないことですし、「愛」は、キリストがわたしたちのために呪いとなって木にかけられ、わたしたちの贖いとなってくださったことにおいてわたしたちと神との関係を決定的に変えてくださったこと、これが事態を動かす力となった愛のことであって、わたしたちの神とキリストに対する親愛の情や慕い賛美する心などから出た実践などでは到底及びもつかないことです。また、「霊」はわたしたちの内にある霊感や、霊力など言ったものではなく、上からの働きかけ、命の息であること、これがわたしたちの中に愛を呼び覚まし、信仰を起こして、希望へと心開かれて行くこととなるのです。それは、わたしたちの側で「愛の実践を伴わなくてもよい」ということではありません。問題は、その根源の原動力をどこに得るかということです。信仰の始原を、「愛によって働く信仰」、「霊により信仰に基づく希望」においているのです。