「命の価値」
藤崎義宣 牧師
マタイによる福音書6章25~34節
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レントは、主の苦しみを思い、自らを空しくし、自ら罪の悔い改めを行い、自らが主と共に死に、主と共に新しい自分に復活をする備えの時です。試練の時、忍耐の時とも言えます。人は、自分が大きくなり、物質的にも精神的にも豊かになっていくのを喜ぶ傾向がありますが、逆に自分からものが取り去られ、自分の地位が落とされていく、空しくされていくのは耐え難い感じがします。しかし、主のイエスの十字架への道は、苦難の道、自らが低められ、空しくされていく道でした。▼昔からユダヤでは、偶像は人間の願いや欲望に「イエス」しか言わないが、生ける真の神は人間に対して時に応じてはっきりと「ノー」と言われる神であると言われてきました。「ノー」と言われると人は悲しくなり傷ついたような気になります。 ▼「思い煩うな」という主イエスの言葉は、神の「ノー」の一面です。不安と怖れのために、過剰に考えすぎ、心配をしすぎる結果、自分の能力を病的に高め、欲望に忠実になり、過剰に生産と仕事に明け暮れ、栄華を求めようとする私たちに、神は主イエスを通して、「ノー」を宣言されこの世界の中で命の道を生きる神の知恵を教えます。▼神の教え、律法、知恵は、これを為せという命令とこれをするなという禁止の二つでできています。「ノー」は傲慢に膨れ上がっている私たちを打ち砕きますが、その痛みと禁止から、私たちは不要なものを捨て、自粛をし、欲望による不要なものを遠ざけ、自分自身に立ち返り、神の自由の空気を吸うことができます。▼打ち砕かれ、空しくなり空になった心の器の中に、神の恵み、知恵、自由が注ぎ込まれます。空の鳥、野の花を生かし、主の創造の業を賛美している命の原理と美に触れることができます。主の十字架への道は、私たちの自由の道、再生の道でもあるのです。(藤崎義宣牧師)