「仕えるために来られたキリスト」
一之木幸男牧師
マルコによる福音書10章32節~45節
※音声ファイルはありません
コロナの時代となり、おそらく多くの人々が肌で感じているであろうことは、これまで「当たり前」として受け止めてきたことが実はそうではなかったいうことではないでしょうか。 もう何千年も前から聖書は、イエス・キリストは、そのような人間の「当たり前」を問い、揺さぶり、ひっくり返してきました。 本日の聖句においては、それが鮮明に表れています。イエスさまと弟子たちの在り方は、際だった対照を見せています。目指す方向が違うからです。父のもとから降ってこられたイエスさまはそこからさらに「低く低く」十字架の死にまで降っていかれます。対して弟子たちは「上ヘ上ヘ、少しでも人より上ヘ」という、昇っていく在り方です。イエスさまが三度目の受難予告をされた直後に、ヤコブとヨハネは願い事をしました。「わたしどもの一人をあなたの右に、左に…」と。これまでもこれからも弟子たちは議論します。「自分たちのうちで誰が一番偉いか」と。そこから、『交わりの生死が決定されるような恐るべき争いが起こる』(D・ボンヘッファー) この最も醜い争いのなかで、最も深い神の奥義を明らかにされるところに、主イエス・キリストの素晴らしさがあります。昔も今も、自らを偉いと思っている人たちが他者を力で押さえつけて、自由を・いのちを奪っている。「あなたがたの間では、そんなことではダメだ!皆に仕える者・すべての人の下僕になれ!」《なぜなら》私が、仕えるために来た者だから。これは単なる倫理道徳を説いた言葉ではありません。《招き》です。ここでこそ、神と人・人と人とが真に出会い、愛と平和に溢れて生きることのできる道なのだということでしょう。それではこれをいかにして生活のなかで具現化していったらよいのか?
一つわかっているのは《聴く》ことでしょう。神と人に耳を澄ませることから、仕える生き方が始まるのでしょう