説 教

  2022年4月10日

受難節第6主日(棕櫚の主日)

  • 「御心がおこなわれますように」

    一之木幸男牧師
    マルコによる福音書14章32節~42節
    ※音声ファイルはありません
    弟子たちを伴いゲツセマネに来ると、イエスは弟子たちに「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われました。さらにペトロ・ヤコブ・ヨハネにはこう言われます。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」《死ぬばかりの悲しみ》……これは簡単に理解・解釈できるものではありません。イザヤが告げる『苦難のしもべ』の姿が浮びあがってきます。「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。」(イザヤ53:3 口語訳)わたしたちが、全人類が、この身に覚える悲しみ・苦しみ、それらのすべてをイエス・キリストは《死ぬばかりの悲しみ》として、その身に負ってくださっている。だからヘブライ人への手紙の著者は、こう告げることができました。「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることができるのです。」(2:18) イエスの祈りはこうでした。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」ここに〈聞き入れられる祈り〉と〈聞き入れられない祈り〉があることを思わされます。前半の祈りは聞き入れられませんでした。「この杯をわたしから取りのけてください」という祈りが聞き入れられていたとしたら、教会そのものが存在しなかったのです。そして教会が存在しなかったのなら、人は聖書も祈りも知らずに生きていたでありましょう。イエス・キリストがなされた、聞かれなかった祈りにおいても、否、その祈りにおいてこそ、いま・ここでの私の救いがもたらされているのです。《父なる神の御心を行う》この事だけが、イエスの唯一の関心事でありました。そして今、イエスはこれを祈っておられるのです。十字架、それが父なる神の御心でした。