説 教

  2022年4月24日

復活節第一主日

  • 「平和があるように」

    一之木幸男牧師
    ヨハネによる福音書20章19節~29節
    ※音声ファイルはありません
    弟子たちはマグダラのマリアから「わたしは主を見ました」と聞いていました。イエス・キリストの復活の知らせを既に聞いていたのです。ところが…「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」 恐れ・イエスを見捨てて逃げてしまった自分たちのふがいなさ・罪の意識によって、彼らの心はこの戸のように完全に閉じてしまっていたのです。それを突き破って、イエスはご自身を現わされます。そして彼らの真ん中に立ち、言われます。「あなたがたに平和があるように」これは《シャローム》という言葉であったと思われます。聖書における「シャローム」=「平和」は戦争がない状態にとどまらず、物質的・身体的に、或いは神と人・人と人との関係において《物事が本来あるべき状態にある》事を表します。主はご自身を見捨てて逃げ去った弟子たちにまずこの祝福を祈られました。それは同時に罪の赦しでありました。◇主イエスは傷ついた手と脇腹をお見せになります。「その打たれし傷によって、あなたがたは癒されたのだ」この事実を仰ぐ時、自らのもつ傷も新しい意味をもってきます。それがキリストの憐れみ深さを知る場となり、さらには傷にうめく他者のための<傷ついた癒し人>として用いられるのです。 ◇十二人のひとりトマスは、その時彼らと一緒にいなかった。「イエスを見た」と聞いても「あの方の手に釘の跡を見…なければ、わたしは決して信じない」と言いました。ここから“疑い深いトマス”などと呼ばれてきました。イエスは彼の言葉通りにさせました。そして告白へと導きました。「わたしの主、わたしの神よ」。この関わりを見る時《健全な懐疑によって、活きた信仰が育まれていく》ことを知らされます。信仰は神の賜物です。《神の真実》に活かされることです。そして神の御前で、ほんとうに正直な自分でいられるのです。なんと幸せなことでしょう。