説 教

  2022年7月3日

聖霊降臨節第5主日

  • 「失われたものを捜す神」

    一之木幸男 牧師
    ルカによる福音書15章1~10節
    ※音声ファイルはありません
    「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて食事まで一緒にしている』と不平を言い出した」そしていつまでもそれをやめようとはしなかった。繰り返し浮かぶ素朴な疑問は、なぜ彼らがここまでこだわったのか?ということです。 徴税人は当時のユダヤ社会において、盗人・強盗と同様にみなされていました。「罪人」とここで呼ばれているのは、神の律法を守らない・守れない人々です。対して律法学者・ファリサイ派の人々は、律法の一つ一つを忠実に守り自ら清さを保っている(と思い込んでいる)存在です。汚れた人々と交わって汚れを身に受けてはならないと考えていたのです。それではなぜ、イエス様の行動にまで文句を言っているのか?思い至るのは「嫉妬」ということです。「人々がイエスを引き渡したのは、妬みのためだとわかっていた」(マタイ27:18) 主イエスの凄さは、ここを神の憐れみ深さを示す場としていることです。「捜し回らないだろうか」「一緒に喜んでくださいと言うであろう」と、イエスはそれが当然のこととして語っている。人間の常識では、「そうはしない」という可能性だってある。しかし神はそうした、そうしている。失われた一人を探すため、最も大切な独り子をこの世に遣わされた。キリストは十字架でいのちを献げてくださった。この《常識破り》の仕方で神は救いを与えてくださっている。今も失われたものを捜し回っておられる。こうして見つけていただいたのが他ならぬ《この私》である、と気づかされる時、天と共に自らの心にも、限りなく大きな喜びが与えられます。