「主のまなざし」
三吉信彦 牧師
マルコによる福音書12章35~44節
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今日の聖書の箇所は、主イエスがエルサレム神殿で公に語られた最後の場面で、マルコの中心メッセージが示されている。この段落の前には、主がユダヤの支配層との論争を通して彼らの欺瞞を暴かれた記事が置かれている。またこの後には、神殿の崩壊(13:1以下)、終末の到来が預言されて、これを機に主の十字架への道行きが始まる。これらに挟まれた真ん中に、律法学者たちの偽善性と貧しいやもめの全幅の信頼が浮き彫りにされている。貧しく小さき者たちへの「主の慈しみに満ちたまなざし」これがマルコ福音書の中心メッセージである。 レプトン銅貨二つとは100 200円程度、やもめはその全財産を捧げたと主はみなされた。「見ておられた」(41節)は、注視する、識別するであって、見るべきものを見分ける力である。 下半身の不自由な婦人が、障がい者は周囲から常に「見られる立場」であるが、逆に「見る側」でもあり、健常者たちを観察し、その理解の程度を見分けている。つまり「見られる」ことから「見る」視点を養ったと話された。★般若心経に「観自在菩薩」とあるが「観世音菩薩」と同義。「観」は見る、見られると両義で、菩薩は「見る、見られる」立場を自在に用い、衆生の声を聴き分け救うとされる。ただ菩薩は崇められても、自らを低くし十字架に死に、陰府にまで下られた主イエスには及ばぬ。★主イエスは自ら衆生の中に分け入り耳目を傾け、自らその苦難を味わい尽くして、十字架の贖いを成し遂げられた。そのまなざしは深く世と人の本質を見抜き給う。★私たちにもこの主のまなざしが注がれている。日本基督教団の諸教会の現状 教勢は落ち、高齢化が進んでいる。教会は社会からどう見られているか意識しているだろうか。そこから自己吟味を図ることが肝要ではないか。主の慈しみのまなざしのもと、伝道の方策を捉え直し、社会にさらに一歩踏み出す勇気を持とう。