「わたしはある わたしはあるという者だ」
一之木幸男 牧師
出エジプト記3章1~15節
※音声ファイルはありません
聖書の中心である、神による解放の出来事、出エジプト。その指導者として召し出されたモーセと神との出会いは、彼が「道をそれて」不思議な光景を見届けようとしたことから始まりました。彼がそのようにやって来るのを、神は御覧になっていました。◆「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と御自らを現わされます。神は、一人に関わってくださるのです。十把ひとからげではないのです。一般論で語られる方でもないのです。それ故に、「私の神よ」と呼びかけることが許されているのです。◆さらに決定的な啓示の言葉が語られます。「わたしはある。わたしはあるという者だ」 このみ言葉をめぐって、多くの研究者達が長い間その真意を探し求めてきました。英語ではI am who I amと表現されています。ここでの「ある」は、いくつかの重層的な意味を持っています。まず〈存在〉。「私はいる。存在そのものである」 そして〈生成〉「私は、私がなろうとするものである」
さらには<活動>「私は、生きて働く者である」 これらすべては、イエス・キリストにつながっていきます。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』…ことがわかるだろう」(ヨハネ福音書8:28)◆神がこのようにご自身を啓示し、モーセを召し出された時、彼は80才でした。アブラムの召命は75才の時でした。今日様々な所で「高齢化」が語られます。どこかネガティブなイメージがあるように感じます。しかし、神にあってはそうではありません。主はいつでも、どのような状況にあっても、絶えず新しくご自身を現してくださるのです。